どこまでも純粋で、戸惑う事もなく、身にまとう意味が、罪を飛び越え、乗り越える意味が、緻密になり、備わるものが、確かなものに変わり、関わるほどに、はびこる答えが、今を支配したがり、従えるほどに破壊的になり、適応すればするほどにすれ違い、誓いなんかを立てては、建前ばかりで、遠ざかるばかりの答えを追いかけ、横溢する過去や、そこかしこで、逸脱する今に擦り寄り、一過性の結末や、整合性もなく、自分こそは、正しいと、自分だけは、間違いではないと、勘違いしているような輩が撒き散らす正義により、犠牲になってゆく現在を、健気に退け、もたらされるもののほとんどに、補填されるものから乖離し、理解なんかを求めるほどに、乖離してゆくことごとくを、乖離させるための手当てや、束ねる答えが、障壁に変わる頃、絶えず襲いかかる憎しみの道具になり、偶像崇拝を続け、貧するだけの毎日に迫る支払いや、絶え間ない苦しみを供儀として、自らを収める間に酩酊を続け、システム上のバグとして、排除される人々が、備蓄してきた可能性すら破壊するような輩が仕向ける正しさは、依然として、悪意を溜め込み、編み込まれる理由が流動し、本質に巻き付く罪が重荷に変わり、横暴な答えを解体し、画期的なものを生み出し、奪い合うための価値がまやかしになり、散々な毎日に現れる問答やら、そこかしこで過信し、混濁する回線の中で拘泥し、抵抗し続ける事で、馬鹿どもの支配から逃れ、そこで堅持するものから、物語は、進行する事を辞めてしまい、そこで、拘うだけに至らせるような、結末から飛び立ち、自由を履き違えずに、じっとしていても、心は、どこにだって行けるし、徒に消費するものや、そこで、すれ違いながら、なだめる現在を、大切に育てるのです。
2025年03月17日
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